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16歳で沖縄戦に動員された女学生の映画『ふじ学徒隊』が東京・大阪・沖縄で上映。 [沖縄&琉球國]

日本が戦争へ向かいつつある今日この頃……、
(一部の方々には「戦争なんてアベちゃんもやらないよ、
オマエの妄想だ~!」と言われておりますが)、
今月はできるだけ沖縄戦のことを書きたいので
しつこく続けてスミマセン(汗)、けれども~、
もう少し、お付き合いくださいませ!

女子学徒隊として動員された
沖縄県内10校の約500人の女学生は、
看護要員として不眠不休で働かされました。
そして、米軍の苛烈な総攻撃のさなかに
解散命令が下り、戦場に放り出されて
行き場もわからない女学生の多くが命を失いました。

旧・那覇市内にあった仏教(浄土真宗)系の
「私立積徳(せきとく)高等女学校」からも
56名が動員され、のちに31名が除隊し、
16歳の少女たちの25名が「ふじ学徒隊」を編成し、
ガマ(壕)の野戦病院で傷病兵の看護、手術の補助、
切断した手足の廃棄、水汲み、食事の運搬などを担いました。

以下に、新聞記事を基に、
「ふじ学徒隊」の女学生たちの中から
生き残った方々の証言を抜粋し、補足も追加しました。
なぜ10代で、こんな凄惨な経験をせねばならなかったのか、
胸がふさがれる思いがします。
「ひめゆり学徒隊」をはじめ、当時の女子学徒隊は
同様の体験をしたといいます。

どうか皆さまの想像力を駆使して、
映像のように思い浮かべてくださいませ。
劣悪な環境の野戦病院で彼女らをつらい目に遭わせたのは、
ほとんどが八つ当たり状態の日本兵でした。
(そんなことは絶対にしなかった日本兵もいたそうですが)。


●ガマ(沖縄各地に自然にあった洞窟のような所=壕や、日本軍によって作らされた人工の壕)の中はロウソクの明かりだけで、つねに暗かった。
●ロウソクの炎が、あたりの負傷兵を照らし、不気味な雰囲気だった。
●壕内は蒸し暑く、じっとしていても汗がしたたり落ちる。
●湿気の多い壕内での生活で体の抵抗力が弱まり、下痢が止まらない人や発熱する人が相次いだ。
●ずっと地下足袋を履いたままなので水虫に悩まされ、足の裏の皮がなくなり、真っ赤に腫れて痛くてしようがなかった。
●破傷風にかかり、あごが硬直して開かなくなった兵士の口に無理やり食事を流し込んだ。
●あちらこちらで苦しみもだえる声が、今も頭を離れない。
●戦争のせいで脳がおかされて、両手を失って歩き回る人、独り言をブツブツ繰り返す人が普通に周りにいた。
●兵士で腸チフスになった患者が、胃腸をいたわらなくてはいけないのに「なんで、おもゆしか出さないんだ!」と怒って碗をぶつけた。
●「水を持ってこい」と蹴飛ばされた。
●「上陸したアメリカ兵と沖縄の女は仲良くしているらしいじゃないか!(男女の関係になっていると誤解)。そんな女たちはガマから出ていけ!」と、ののしられた。
●いくら献身しても怒鳴るような兵士たちに対し、私たちは、なんでこの人たちのために頑張っているんだろうと思ったこともあった。
●連日、汗と泥にまみれて戦い続けた負傷兵は、いろんな病原菌に繋がるものをガマに持ち込んだ。
●立ち止まるたびにシラミがモンペの裾に這い上がってきて、払いのけるのが一苦労だった。
●包帯の交換を待ち続ける傷病兵の傷口にはウジがいっぱい、うごめいている。数匹程度の量ではないので、つまんで捨てたけれども、包帯をほどくと、さらに深い傷口に無数のウジ。
消毒液を落とすとウジは素早く中へ引っ込むものの、すぐに這い出してきてポロポロこぼれる。ピンセットで1匹ずつ、つまみ出す時間も惜しくてガーゼでこすり落とした。
●毎日、使用される包帯とガーゼは腐臭を放ち、ウジが湧き、ウジは一晩のうちにバケツ4~5杯分もたまった。
●医療用のガーゼは(使い捨てできる量などないので繰り返し使うために)早朝と夕刻に近くの川や井戸で洗うしかなかった。敵機に見つかって空中から狙われることもたびたびで、いつも命懸けの仕事だった。
●昼夜を問わず、負傷兵の悲痛な叫び声、軍医の怒鳴る声を聞きながら、何一つ不平を言わずに頑張った。
●兵隊が亡くなる寸前に「お母さん苦しい、お母さん」と叫ぶ。お母さんの代わりに手を握りって、最期の息を引き取らせた。
●おとなしく横たわっている兵士に「ご気分は、いかがですか?」と話しかけたら、すでに冷たくなっていた。
●死体を埋葬した地点に砲弾が落ち、人体の肉片が周辺の木の枝にぶらさがる異様な光景も体験した。
●5月下旬、病院に南部へ撤退という命令が下った。どうにか歩ける患者には杖を持たせて歩いてもらったけれども、動けない重傷者には水や乾パンを枕元に残し、置き去りにせよと命令された。
●置いていかれる重傷患者たちは、自分の運命がどうなるか、よくわかっていた。すべてを諦め、寂しそうに寝たまま何も言わず、ガマから出る人たちを見送ってくれた。できることなら一緒にいてあげたい。切ない気持ちになったが、命令にはそむけなかったので、後ろ髪を引かれる思いで脱出した。

※参考:「積徳高等女学校」(琉球新報「戦禍を掘る」取材班/1984年6月掲載)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-157147-storytopic-9.html


この「ふじ学徒隊」などの指揮を執(と)った隊長の
小池勇助(軍医・少佐/長野県出身)は、
6月26日になってから学徒隊に解散を発令したそうですが、
その際、司令官の牛島 満の名で出された最後の命令
「捕虜にはならず、最後まで戦え」とは言わず、
「必ず生き残れ。親元へ帰れ」と伝え、
その後、隊長は責任を取るために
青酸カリをあおって自決したとのことです。

「ふじ学徒隊」の生存者は
「生き延びて第二、第三の国民の養育に尽くしてくれ」
と言った隊長の言葉を今も忘れないでいるそうです。
小池隊長の指示を守った「ふじ学徒隊」は
壕を脱出後、ほとんどの人が米軍の捕虜となりました。
それでも3名の女学生は
戦争に命を奪われてしまったのです。



この「ふじ学徒隊」の方々の証言を集めた
ドキュメンタリー映画が
東京・大阪・沖縄で20日(土)から公開されます。

●短編映画『ふじ学徒隊』(2012年/48分)
http://fujigakutotai.com/
(※予告編も観られます)。
監督:野村岳也
証言:仲里ハル、宮城トヨ子、宮城喜久子、田崎芳子、渡久地敏子、名城文子、真喜志光子、真喜志善子、平良ハツ、嘉手納米子、新垣道子、大城正祺
製作委員会:宮城鷹夫、福地曠昭、安仁屋政昭、星 雅彦、海勢頭豊、古謝将嘉、新垣道子、与儀尚子、城間妙子、玉盛照子(ふじ同窓会)
製作:澤岻 健、脚本:城間あさみ、撮影:伊志嶺 悟、編集:城間克彦、ナレーター:米洲五十六
製作・配給:海燕社


上映期間:6月20日(土)~26日(金)

東京
●「アップリンク」FACTORY(1F)
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/37901
(渋谷区 宇田川町37-18 トツネビル1-2F)
10:20~11:18(1日1回)
[料金]
一般1,200円、学生・シニア・UPLINK会員1,000円

大阪
●「淀川文化創造館 Theater Seven(シアターセブン)」
http://www.theater-seven.com/2015/movie_fuji-2015.html
(大阪市 淀川区 十三本町1-7-27 サンポードシティ5F)
10:00~10:53(1日1回)
[料金]
一般1,200円、シニア・学生1,000円、小学生以下700円
シアターセブン会員1,000円

沖縄
●「桜坂劇場」
http://www.sakura-zaka.com/movie/1506/1506_fujigakutotai.html
(那覇市 牧志3-6-10)
10:20~(1日1回)
[料金]
一般1,645円、高校・大学生1,337円、小・中学生1,028円、
シニア(60歳以上)1,131円、幼児617円
会員1,000円、月曜FunC会員割引800円
★映画とは全然、関係ないんですけど、
ハンパな料金設定、珍しいですね~。

※料金については各劇場のサイト等で再確認してくださいまし。


ところで、この映画の紹介文の中で
私は以下の表現に引っ掛かりました。

「激戦の本島南部では、ほとんどの学徒隊が
半数近くの戦死者を出した。そんな中、
わずか3名の戦死者にとどまった女子学徒隊が
ふじ学徒隊である。」

……おそらく書き手としては
おびただしい犠牲者を出した激戦地にあって
よくぞ生き抜いてくださいましたと
称える気持ちがあるのだろう、とは思いますよ。

でも、「わずか3名の戦死者にとどまった」というのは、
亡くなった3人の女学生や遺族に対して
思いやりのある表現と言えるのでしょうか?
その一人ひとりの未来が永遠に奪われたのに。

下記の辞書の解説を読んでいただくとわかると思いますが、
「わずか」という言葉は
「(数が)少ない」という意味においては
間違った使い方ではありませんよね。
しかし、命を失った側の立場で考えると、
それだけのニュアンスとは思えない。
「わずか3名の戦死者にとどまった」というのは
亡くなった本人や遺族にしてみれば
「あなたとAちゃんとBちゃんが死んだだけで、
あとの人は助かったから良かった」
と言われているようにも受け取れます。
……不幸中の幸いと思えってこと?

私が穿(うが)ち過ぎなのでしょうか?

戦争で同窓生を亡くした人たちには
「生き残って申し訳ない」
という気持ちを生涯、抱えている人も多いと聞きます。
「ふじ学徒隊」の女学生たちは
沖縄で“おばぁ”と呼ばれる年代になる今でも、
「3人だけ死んじゃったのは仕方ないけど、
私たちは生き延びられて助かったさ~」
なんて思っている人はいないんじゃないか。
戦後70年ずっと、学友の死までを背負って
生きていらしたのではないでしょうか。

「ふじ学徒隊」で亡くなった3名のうち、
一人は隊の解散前に「家族に会う」と壕を出て、途中で戦死。
もう一人は壕から脱出した際、
日本軍と米軍の交戦に巻き込まれて死亡。
そして、もう一人は
戦後に心の傷がもとで自死したそうです。


[参考]

●わずか【僅か・纔か】(出典:三省堂『大辞林』)
① 数量・程度・度合・価値などのきわめて少ない・こと(さま)。
ほんの少し。
単独で副詞的にも用いる。
「 -の費用で済む」「 -な日数で完成する」「 -に覚えている」
「 -な事で争う」「 -三人しか集まらなかった」
② みすぼらしいさま。貧弱なさま。
「 -なる板びさしをかりてしのび住ひ/浮世草子・五人女 5」

●わずか【僅か/纔か】(出典:小学館『デジタル大辞泉』)
① 数量・程度・価値・時間などがほんのすこしであるさま。
副詞的にも用いる。
「―な金の事でいがみ合う」「―な食料しかない」
「―に制限重量をオーバーする」「ここから―10分の距離」
② (多く「わずかに」の形で用いて)
そうするのがやっとであるさま。かろうじて。
「―に記憶している」「―に難を逃れた」
③ ささやかで粗末なさま。
「―なる腰折文つくることなど習ひ侍りしかば」〈源・帚木〉

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